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| 1920 |
0 歳 |
7月4日中頭郡越来村仲原 ( 屋取 ) にて出生。父・林次郎、母ウシの三人兄弟 ( 男だけ ) の長男。生家は現嘉手納飛行場の中。「蘇鉄地獄」と言われた大不況が始まる。 |
| 1927 |
7 歳 |
越来尋常高等小学校に入学。唄好きの母の影響でこの頃から自然に三絃と戯れる。 |
| 1928 |
8 歳 | 歌人でもある母のうたに初めて曲を乗せた。親子合作の名曲「廃藩ぬ武士」。ウシは息子の天分に気付きいろいろな所で唄わせた。 |
| 1930 |
10 歳 | 農業手伝いの為、この頃より学校に行かなくなる。 |
| 1933 | 13 歳 | 先輩たちに連れられて「毛遊び」の伴奏をさせられた。 |
| 1934 | 14 歳 | 嘉手納のS商店に奉公へ出される。「とても辛かった」。一月の手間賃が3円50銭。大阪までの片道船賃が10円 50 銭であった頃。 |
| 1935 | 15 歳 | 村の行事やエイサーなどで幅広く三弦伴奏を行う。 |
1936
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16 歳
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親が牛を売ったお金をこっそり拝借、大阪行きの「浮島丸」に乗り込んだ。バサー(芭蕉布)に地下足袋だった。もちろん三弦を携えて。大正区北恩加島の東製材所に住み込みで働く。後に親戚の与儀製材所へ移る。風呂屋、菓子屋、そば屋などに薪を配達してチップを貰ったり、ただでそばを食べさせて貰った時は嬉しかった。たまの休みは活動写真で‘原節子'。時々沖縄県人の集まりで三弦を弾いたり「とにかく一生懸命だった」大阪青春時代。 |
| 1939 | 19 歳 | 徴兵検査の為に帰郷。ちょうど 19 の春でした。大分県陸軍 46 連隊に入隊。 |
| 1941 | 21 歳 | 常備役が満期になったのを期に、予備役の延期願いと「南洋興発株式会社」への出稼ぎ申請を提出、テニアン島へ。「貧乏人は南洋に行ったほうがいいと言われて行ったら戦が始まってよ」。サイパンでは仕事の傍ら沖縄芝居「南星」で地方 ( じかた ) を務める。 |
| 1944 | 24 歳 | 戦況が悪化。クサイ島にて教育隊として召集されるが被弾、捕虜となり、野戦病院へ収容され生死の境をさまよう。 70 数キロあった体重も 40 キロに激減。激戦地、南洋諸島は陥落。もう二度と日本の土を踏むまいと死亡届けを出した。 |
| 1945 | 25 歳 | 父・林次郎死去 (52 歳 ) 。 6 月 23 日「沖縄戦」が終わった。 8 月 15 日「終戦」。 11 月、南洋より神奈川県逗子へ引き上げる。 |
| 1946 | 26 歳 | ヤミ物資を買い出しの途中、鶴見を通りかかった時、汽車の窓から「沖縄芝居・奥間永五郎一座」の横断幕が目に入り途中下車。その一座の地方に。大阪へ移り、野村安伸劇団ほか二劇団にて3年余り地方巡業。 |
| 1949 | 29 歳 | 春、沖縄へ帰る。死んだはずの息子を見て、母は数日、正気ではいられなかった。沖縄はまだ戦争の爪跡が残る荒地そのものだった。馬車曳の仕事につく。 |
| 1950 | 30 歳 | 初レコーディングは SP 盤「恋語れ節」。照屋ぬ前ぬタル普久原ぬ前ぬ屋アサギで録音した(嘉手苅メモ)。プレスされたのは 1958 年。この頃、山内昌徳の家に小浜守栄、嘉手苅林昌、喜納昌永が集まり、後の 4 大巨人のバトルセッションが夜な夜な行われた。それは戦後沖縄島唄の夜明けでもあった。 |
| 1955 | 35 歳 | 民放ラジオの草創期、琉球放送主催、第一回ナークニー大会に出場。山内昌徳、登川誠仁と共に入賞する。娯楽が渇望された時代に民謡が流れ大反響。暗く荒んだ庶民の心をどれ程慰めたか計り知れない。嘉手苅林昌の名もラジオを通して知られるようになる。馬車曳を辞め、劇団の地方、村の行事、祝いの座、市場等で唄う。特に田舎の祝いの座敷などは南は糸満から北はヤンバル国頭まで、小浜守栄とよく出かけた。この二人の存在こそが戦後の沖縄民謡界に革命をもたらした。田舎名人の垣根を取っ払い、独特の唄声と節回しによる千曲以上のレパートリー。そして昔唄の掘り起こしに情熱を注いだ。沖縄の島々をスミからスミまで唄い歩く。 |
| 1956 | 36 歳 | 具志川市安慶名、浦添市屋富祖にて民謡研究所を開設。「教えるというより追いてこいと、手 ( 指使い ) を見せた」 ( 照屋寛徳 ) |
| 1958 | 38 歳 | この頃よりマルタカ、マルフクでレコーディングにも本格的に取り組む。 |
| 1959 | 39 歳 | 首里城跡にまだラジオ放送局があった頃、放送を終えての帰りに首里、山川のバス停で居合わせたおばさん達のユンタク(雑談)を端で聞き、「時代の流れ」が作詞された。 |
| 1962 | 42 歳 | 琉球民謡協会設立に参加。 |
| 1963 | 43 歳 | 伊江島に三弦指導に行き、そのまま2年近く滞在。 |
| 1965 | 45 歳 | ファースト LP 「嘉手苅林昌」 ( マルフク ) 発売。「ヒンスー尾類小」「ラッパ節」 ( 比嘉春子と ) など収録。ミーグルグル ( 目まぐるしく ) するくらい精力的に働いた。他の歌手の追随を許さない絶頂期への足取り 。 |
| 1966 | 46 歳 | 「 ( 芋掘い ) ナークニー」 ( 大城美佐子と ) などマルテルにてレコーディング。 |
| 1967 | 47 歳 | 琉球放送のラジオ番組「芸能バラエティー・ふるさとバンザイ」のレギュラーとなる。「白雲節」などゴモンレコードにて録音。 |
| 1969 | 49 歳 | 民謡クラブ「なんた浜」 ( 饒辺愛子経営 ) にて唄い、メインステージとして 26 年間続く。普久原恒勇宅で竹中労と出会う。竹中労、 LP 「海のチンボーラー」私家盤 (URC) を制作。 |
| 1970 | 50 歳 | 暮れから 71 年にかけて、沖縄芸能団として石川県の温泉で1年間唄う。「コザ暴動」の報道を聞いて悔しがる? |
| 1972 | 52 歳 | 「日本復帰( 5 月 15 日)」の前後、民謡ブームは絶頂期に 。 5 月、復帰直前に後輩のTに「あなたがやらないと我々は出来ないよ」と言われ、後進の為にもコザ2ヶ所で「嘉手苅林昌芸能生活 40 周年記念リサイタル」を催し大盛況。コザは BC 通りに民謡クラブ「林昌」を始めるが4ヵ月後に閉店。 |
| 1973 | 53 歳 | 母ウシ死去 (5 月 20 日、 79 歳 ) 。 5 月、上野本牧亭、渋谷ジャン・ジャン、 8 月、大阪、名古屋、東京 ( 渋谷ジャン・ジャン ) にて「琉球情歌行/嘉手苅林昌独演会」と銘打って初の本格的本土公演。共演=大城美佐子、ゲスト=大工哲弘、司会=上原直彦。翌年LP「琉球情歌行」 ( ビクター、竹中労監修 ) として発売。 |
| 1974 | 54 歳 | 6 月、沖縄市の中頭教育会館にて独演会を開く。この頃、沖縄民謡も嘉手苅林昌も絶頂期まっただ中。この模様はLP「おきなわの心」(エレックレコード ) に収録。 CD 「嘉手苅林昌BEFORE/AFTER 」 (B/C レコード、 1998 年発売 ) にて復刻された。 8 月、琉球フェスティバル '74 「語やびら島うた」を大阪フェスティバルホール、東京日比谷野外音楽堂にて開催。東京に沖縄解放区が実現した(琉球新報)。沖縄から総勢 27 名が参加、もちろん旗頭は嘉手苅林昌。 |
| 1975 | 55 歳 | 琉球フェスティバル '75 “春” (3 月〜 4 月 ) 東京新宿厚生年金会館など計 9 回に及ぶ公演。8 月、琉球フェスティバル '75 “夏”を東京、大阪、京都にて公演。竹中労舵取りでの本土公演は沖縄音楽を認識させるのに十分であった。 LP レコード 35 枚 (24 枚は嘉手苅林昌が録音 )400 数十曲の圧倒的なドキュメントを残す。 |
| 1976 | 56 歳 | 復帰記念、海洋博開催 ('75 ・7 ) を期に戦後最大の不況。民謡ブームも下火になっていく。胃痛を訴えパンシロンを手放さない日が続くが、ついにメスを入れる。胃潰瘍の手術のついでに盲腸も取った人も珍しい。ハワイで公演。 |
| 1978 | 58 歳 | 琉球放送ラジオ「芸能バラエティー」のレギュラーを 12 年間努め後進にバトンタッチ。 |
| 1983 | 63 歳 | カセットアルバム「嘉手苅林昌 20 曲」 (BCY ンナルフォン ) 発売。 |
| 1985 | 65 歳 | 映画「パラダイスビュー」 ( 高嶺剛監督 ) に出演。嘉手苅林昌の弟子やファンによる弦生会( 照屋寛徳会長 ) 発足。アルゼンチンに支部。 |
| 1986 | 66 歳 | 「ちょっとアルゼンチンまで」と言って、ブラジルも廻り帰ってきたのは半年後。 |
| 1989 | 69 歳 | 映画「ウンタマギルー」 ( 高嶺剛監督 ) に出演。 |
| 1990 | 70 歳 | CD 「嘉手苅林昌特集 ( 全 17 曲 ) 」 ( マルフク ) をリリース。 |
| 1991 | 71 歳 | 竹中労・別れの音楽会「琉球フェスティバル '91 『語やびら島うた、ふたたび』」に出演。 |
| 1992 | 72 歳 | CD 「琉球フェスティバル '91 」 ( ビクター ) 、カセット・アルバム「平成の嘉手苅林昌」(BCY) リリース。 7 月、芸能生活 60 周年記念リサイタル「嘉手苅林昌/生まれ年・独演会」を催す。超満員。チケットを持った客が 200 人以上入場できなかった。その翌日から借金取りの来訪。その多さにこれまた仰天。東京で弟子ともいえる知名定男と「二人会」を開催。 |
| 1993 | 73 歳 | 沖縄市表彰を受ける。山里勇吉とのジョイント CD 「うたあわせ」 (B/CRECORD) リリース。 |
| 1994 | 74 歳 | 沖縄県功労者 ( 文化部門 ) に選ばれる。 CD 「沖縄しまうたの真髄」 ( ビクター ) 、ビデオ「嘉手苅林昌・唄と語り」 ( 高嶺剛監督 ) 発売。 |
| 1995 | 75 歳 | 沖縄タイムス賞(文化部門)受賞。 琉球民謡協会名誉会長就任。 26 年間続けた「なんた浜」での活動を退く。引退の噂。 |
| 1996 | 76 歳 | 信頼する演奏家、普久原恒勇と「 THE LAST SESSION 」 ( 東芝EMI ) をリリース。 10 月、久高島にてエレクトリック・トランペッター近藤等則のラブコールでジョイントコンサート、「沖縄の魂の行方」。 |
| 1997 | 77 歳 | 地域文化功労者表彰(文部大臣)を受ける。民謡歌手初の受賞は後進の励みとなった。「琉球フェスティバル '97 」にて久し振りに登川誠仁と共演し喝采を浴びる。映画「秘祭」 ( 新城卓監督 ) に出演。 |
| 1998 | 78 歳 | 映画「ビート」 ( 宮本亜門監督 ) に出演。沖縄市民劇場「あしびなー」のこけら落としに出演。ドイツ映画“ The Great grandson of the man who drank a cow” ( トーマス・ステイラー監督・日本未公開 ) に近藤等則と共演。 |
| 1999 | 79 歳 | 琉球民謡協会より「民謡名人」の称号を与えられる。映画「ナビィの恋」 ( 中江祐司監督 ) に出演、最後の仕事となる。 5 月に入院、 7 月に再入院。この間、見舞いの大城美佐子に「 3 枚肉を 4 枚食べたい」、登川誠仁が同じ病院に入院してきた。 10 月 9 日午前 5 時 4 分、肺癌のため沖縄市内の病院にて永眠。 21 世紀を見ずに逝く。全国紙の朝日新聞、読売新聞でも報道された。ビクターより追悼ベスト盤「風狂歌人」「ジルー」、復刻盤「琉球情歌行」、末発表を含む復刻盤「沖縄島歌の伝説〜海・恋・戦〜嘉手苅林昌全集 8 枚組」、計 11 枚の CDがリリースされた。 SP10 枚以上、 LP28 枚、 EP92 枚、 CD32 枚。琉球民謡歌手の圧倒的な最多レコーディング記録。 10 月 8 日、東京吉祥寺バウス・シアターにて「嘉手苅林昌追悼ライブ」を催す ( セスコ・ジャパン ) 。出演=大城美佐子、大工哲弘、嘉手苅林次。 |
| 2001 | 「平成の嘉手苅林昌」 (BCY ンナルフォンレコード ) 復刻。 11 月 4 日、沖縄市民会館大ホールにて追悼公演「三味と共に・・・」。 登川誠仁、照屋寛徳、知名定男、大城美佐子、大工哲弘、嘉手苅林次など総勢 145 名が出演、満員に。嘉手苅林昌追悼公演記念限定盤「三味と共に・・・」( 嘉手苅林昌追悼公演実行委員会 / 制作 ( 有 ) キャンパス ) をリリース。 |
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七回忌記念、 '96 年、神の島・久高島ミュージックキャンプ「沖縄の魂の行方」 (Spiritual Nature Island) がリリースされた。 |
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