1996年10月。沖縄の最高の聖地で、久高島ミュージック・キャンプは開催された。
このコンサートの発起人となった私の個人的な関心がどこまで多くの人々と共有できるのか不安だったが、久高島青年会、近藤等則ファンが中心となり実現した。「久高島」という沖縄の人々にとっても特別な場所でのコンサートは神の仕業により現実できたのだ。その過程には不思議な出来事が数多くあった。その中で体験したことは断言することはできないのだが、「神」か、あるいは「今を同時にくらす祖先」の貴重なアドバイスで実現したと私は感じる。それが久高島のミュージック・キャンプだった。

 


このテント村でコンサートを見に来た人たちは一夜を過ごした。

 

 

久高島とは

沖縄本島南部、知念半島の東方約5.5kmの太平洋上に位置する。面積1.39km2・周囲7.75km。知念村に属し、1島で宇久高を構成。最高標高17.1mの細長い平坦な島で、琉球石灰岩からなる。人口247名。

 久高島は琉球開闢神話でアマミキョの上陸地とされ、五穀発祥の地としても知られ、神の島とされている。島の中央部西海岸寄りにコバウノ森・中森ノ嶽があり、コバウノ森は、琉球開闢神話でアマミキョが作った御嶽の一つである。またカベール森はアマミキョ降臨の地とされている。

「由来記」には、2月麦のミシキョマ(麦初穂祭)の時、一年おきに国王が久高島へ行幸することが見え、それはアマミキョが天に上り五穀の種子を乞い下り、初めて麦・粟・菽・黍数種を久高島にまいたことに由来するとある。また、同書には五穀の入った壷が久高島伊敷浜に流れつき、春になってできた麦を王国に献上したことから、隔年に一度の国王行幸が始まったとも伝える。国王行幸の際に、どのような儀式が行われたかは未詳だが、王府の祭礼には、久高ノロと外間ノロが島の神女を神祭の広場(神庭)に集めて、盛大な儀礼を行ったと思われる。「おもろさうし」巻22?31,No.1538は祭祀の際の神庭での情景を謡っている。

一、くたかあつめなに(久高の集め庭に)
  くせきよらか(寄せ清らの)
  けおのうち(霊威の内)
  あらさきの やくめ(新崎の畏さ)
又、ほかまあつめなに(外間の集め庭に)

このオモロは、題に「久高外間御殿にて御規式の御時」とあり、王府祭祀が行われる集め庭(神庭)は、寄せ清ら(奇すしく美しい)神女の司る霊威のあらたかなところだと謡っている。
 現在島全体では一年間に27回の祭祀行事がある。12年ごとの午年に行われる重要な祭祀行事イザイホウは、島の女性たちが山ごもりをして神女(女性神職者・ナンチュ)になる古代琉球の神事。その要因の新規採用がイザイホウであり、イザイホウの資格者、すなわち祭祀集団への入団資格者は、丑年30歳から寅年41歳までの女性で、島で生まれ育った者とされている。1990年がその年となっていたが中止され、1978年のイザイホウが最後となった。

明治36年土地整理事業完了後も、島には土地共有制が残され、現在でも地割の遺構が見られる。
私有地は、ノロ・根人が世襲する土地だけに認められた。エラブ岩では旧暦6?12月までエラブウミヘビの漁が行われ、燻製にされる。このような周辺のエラブウミヘビの生息場の漁業権をノロや根人、村頭がもち、漁獲物は彼らの収入源となった。島民は伝統的に海事に長じ、古くは中国への進貢船、薩摩への楷船、飛船の船頭や水夫となって活躍した。第二次世界大戦前は、多くの漁夫たちが台湾の東海岸や奄美大島(鹿児島)へ丸木船を組んで出漁していた。昭和43年送電線の海底ケーブルが敷設されて全島が電化された。昭和53年久手堅海岸(知念半島)と久高島との間に海底送水管が敷設され、水不足も解消された。昭和56年那覇病院付属久高診療所開設。無医地区解消。平成8年、久高小・中学校は創立(明治39年)90周年を迎えた。

 

 

夢のような一夜

久高島ミュージックキャンプ   近藤等則

「久高島ミュージックキャンプ」から東京にもどっても、体の中も心の中も久高島のバイブレーションが続いている。何だか人間が出来たのかなと思うくらい、やわらかい気分のままでいる。顔は日焼けして、ウミンチューの気分だ。
「その日焼け具合、ヤバイですよ。周りから浮いてますよ」と言われたから、
「この日焼けのおかげで、久高島ではオレのお母さんはハワイのフラダンサーということになったんだから」と島の気分で答えた。
久高島の人達の生活ぶり、心のあり方、そして久高島の発する神秘のようなやわらかいバイブレーションにつつまれた素晴らしい一週間だったと思う。
神とは自然・宇宙そのものだと思ってしまう僕にとって、久高島はまさに神の島だった。
10月6日の夕方、馬天港から定期船で島に渡った。少しでも早く行って島の空気に溶けこみたかった。4月29日、はじめて久高島に行った時感じたあの気持ちいいバイブレーションの中に身をひたしたかったからだった。翌朝、外にスピーカーをセットして、電気トランペットを吹きたいと思っていたら、最高の練習場所がみつかった。斎場御嶽が正面に見える崖の上だった。
海に向かって吹き始めると、久高島に流れるバイブレーションは、ネゲブ砂漠ともアンデスとも違うなと感じる。透きとおったやさしさのバイブレーションが久高島をおおい守っているような・・・。僕は透明でやわらかい音色を電気トランペットで捜し始める。そして気づいたのは、今更のように"呼吸"だった。久高島のバイブレーションと一体化するには、呼吸がそうならないといけないということ。それで僕はまあ気楽に行きましょうという気分になった。
夜は久高漁業振興青年会の皆さんが歓迎会をもうけてくれた。福治会長もみんな赤銅色の顔。僕は瀬戸内海来島海峡の生まれなので親近感がわく。やさしい雰囲気の中で泡盛がすすんだ。
「エラブー捕りにゆくけど、見にきてもいいよ」と会長のお母さんが声をかけてくれた。徳仁港の入り口にある岩場の小屋で捕ったばかりのエラブーをみせてもらう。強烈な生命力を発散しながらスネークダンスするエラブーを見て、たじろいだ。世界中の民族の古話の中に、蛇は地球そのものの象徴として登場するという。
「エラブーは神の使いなのよ」と言われて感動した。人間の魂の古里の声が久高島の夜に聞こえたように感じた。エラブー捕りは女の人の役目だという。久高島の透んだやさしいバイブレーションのありかをみたように思えた。それは海からやってくる。
海とは"産み"であって、生命の源、海神=産神なのだろう。だからイザイホーをとりおこなうのも女性なのだ。
僕の相棒のレコーディングエンジニアの池淵君が来たので、貸自転車で夜の島を走った。舗装がきれカベールの神域に入ると、突然気配がかわった。五感がクリアーになってゆくのがわかる。都市では絶対に体験できない感覚だ。カベール岬で天の川を見た。
10月10、11日と太平洋側の浄(きよ)らかな雰囲気の伊敷浜で電気トランペットを吹いた。何という透明感なのだろう。自然の中にすいこまれるように吹いた。
「久高島ミュージックキャンプ」ライブ当日の朝6時頃、風の音で目を醒(さ)ますと空は曇っていた。雨がパラつきはじめる。昨日まで最高の天気だったのにと空を見上げながら、嘉手苅林昌さんを迎えに徳仁港に出る。林昌さんがヒョウヒョウと船から上がってくる姿を見て、何だか安心する。
林昌さん、林次さん、安仁屋真照先生、比嘉いずみさんと出演者がそろって、島内七ヶ所のお祈りに出かけた。「久高島ミュージックキャンプ」のライブが始まる頃には雨も止んでいた。
久高小中学校の運動場に、この天候にもかかわらず800人以上の人達が集まり、ライブは始まった。
東京にもどって三日たっても、「あれは夢のような一夜だった」という思いから抜け出せない。比嘉さんの赤い立ち姿、安仁屋先生の深い精神、林昌さんの慈悲の唱声が、宇宙の中に浮かぶ舞台のように思い出される。僕は久高島のバイブレーションと共振するようなラッパが吹けただろうか。音と人と自然と宇宙が一つの息吹となって、神の手の中で溶けあった夢のような一夜だった。
翌日、夢から醒めた僕は、運動場の真ん中にいた。ライブの後の毛遊びの中で眠ってしまったのだった。真昼の日差しがまぶしかった。
「久高島ミュージックキャンプ」実現に尽力・参加してくださった全ての方々、そして久高島の神様、本当にありがとうございました。

    1996年10月21日。「琉球新報社」提供。

 

 

近藤等則の音    

西村秀三(沖縄民俗学会会員)

1996年10月12日、曇り空の久高島は慌ただしかった。理由は「近藤等則 神の島 久高島ミュージックキャンプ」。近藤等則とは、ノージャンルの音を奏でる世界的なトランペッター。共演者がまた強烈である。沖縄民謡会の重鎮、嘉手苅林昌。つらねという定型詩を詠む比嘉いずみ。王府おもろ伝承者としての安仁屋真昭。イベントとしての構成要素として見ると、かなりのミスマッチといえなくもない。
 そもそもこのイベントは・・・、という説明は省略する。とにかく近藤がこの神の島に来た。彼が敬愛する嘉手苅をはじめ、共演陣も出演を快諾した。この事実に私は興味をもつ。音楽そのものよりも、イベントとしての意味に興味をもつ。出演者と観客とスタッフと島の人々とが織りなしていた現実を、私自身が抱いていた三つの疑問を手がかりにこれから分解していく。


◇           ◇           ◇ 


最初の問いは、近藤等則にとって久高島はどういう場所だったのか?。「世界の聖地を音楽巡礼する」というツアーのこれまでの対象地を点検すると、「聖地」には二つの意味が含まれることがわかる。すなわち自然と宗教空間である。特に久高島は、宗教空間という位置づけにおいて本領を発揮する。それはこの島が沖縄の宗教生活のエッセンスを凝縮しているからである。
琉球創世や穀物起源などの神話的空間としての位置づけがあり、琉球王朝時代には聞得大君(きこえおおきみ)が渡島しての儀式も執り行われていた。その聞得大君を頂点とする王朝の宗教構造、それとのつながりが指摘されるイザイホー祭祀(し)に特徴づけられる島である。また、ニライカナイに関する信仰や祭祀がやたらと多いことでも有名である。それらに加えて、王朝文化として中心的な価値を表現していたおもろとそのベクトル上にあるつらねが、この日この空間を言葉で清めていたことも記されるべきであろう。
聖性は近藤の狙い通りに、その音楽に影響を与えた。観客の一人は彼の音について、「風の音や子供の騒ぎなんかも音の一部として取り込んでいる感じ」「不完全な音楽形式だからこその懐の深さ」と評した。そしてそうであることの理由を、「神の島のエキスを吸いとってトランペットから吐き出す」と表現した。近藤は即興という形態でコンサートにある予定調和を退け、環境のもつ音響効果を操作されたデジタル音に滑り込ませることによって、ここにしかない音楽を創(つく)りあげた。そのための与件として、彼の即興演奏は場所とのつながりが不可欠である。一週間も前から久高島入りして、音合わせをしていたゆえんである。そうして生まれた音は環境に対する壮大なBGMなのである。宗教を介して自然を見る沖縄の世界観が、それを後押ししている。
二つ目の問いは、この空間で体験された事実とはいったい何だったのか?簡単に言ってしまえば、それは一つの音楽イベントだった。しかし、場所の宗教性によって、本来はイベントあるはずのこの出来事は、儀礼の域まで高められていた。同じ「神の島」という舞台設定で書かれた又吉栄喜の『豚の報い』は、御嶽を創るというモチーフが物語を方向づけていたが、ここでは儀礼を創りあげるというモチーフが、当事者の間に潜在していたと思う。例えば、嘉手苅林昌の起用やおもろの引用による伝統の取り込みがそれだ。近藤が嘉手苅やおもろに期待したのは、音楽の原初性であり、彼や彼のように「世界的」と形容されるミュージシャンが失った土着性だった。
この共演によって、イベントは伝統と近代の関係を表現した。ここで重要なのは、イベントに二つの対立軸が生まれたことであり、それは沖縄の村落祭祀によく見られる二律背反の論理─聖と俗のような─を表現していた。実際、近藤と嘉手苅を比べると、対立点がいくつも目を引いた。前者の動と静、人工音と生、ニヒルとユーモアなどがそうである。

 近藤等則と嘉手苅林昌。世界主義で文化を越境する前者と伝統主義で沖縄を癒(いや)し続ける後者。
単純に観客の反応で優越を測るなら、それは伝統の勝利だった。島の人々を中心とする熱狂的な声援が嘉手苅に集められ、彼はツボを押さえた話術で観客に笑いを返していた。若い観客の中には彼のステージ、それどころか本格的な民謡演奏の場面に初めて出会うという人も少なくなかったはずだ。私の周りのそうした人たちは、ただ「よかった」という以外に批評の言葉をもたなかった。高揚感に支配された彼らは、つまり伝統を客体化することができなかったわけだが、彼らにとってそれだけ身近なところにまだ民謡とその身体感覚があるのだという安堵(ど)感を私は得た。
一方の近藤は、拍手さえ似合わない都市的な音で伝統に対峙(じ)した。「地球を吹く」という彼のテーマは、自然や原始宗教に対する単純な礼讃ではない。文明の道具を用いて地球を表現すること、それを地球にフィードバックすることが狙いとしてある。そこには地球に対する敬意はあっても従属はない。だから、ときには対立的な不協和音が吐き出されたりする。その点は、自然やそれが観念化されたところの宗教と共生している伝統の側の住民とは明らかに異なる。
しかし、それもこれも儀礼の過程だった。最初はあからさまに伝統と反目していた異質の音は、海からの風を受けて、徐々に環境と調和していくように感じられた。ステージングの中ほどで琉球音階のフレーズが奏でられたとき、混沌(とん)が融合へと姿を変えたのを私たちは見た。そのときから、近藤と彼が操る機械は伝統の否定者としてではなく、継承と創造を同時に行う伝統のイノベーターの役割を与えられたのだった。
イベントにおいて、近藤はあるいは主役の座を奪われた。けれども、それは儀礼構成としては正解だったといえる。ジオラマに描かれた周縁(サブカルチャー)と中心(伝統文化)を往復する巡礼者が彼であり、演奏はその過程を表現する歌劇だった。彼は往路では伝統を再活性化させる道化役に甘んじながら、復路では彼や私たちが生きる現実を土着化していたのだった。


※             ※           ※


魂の終着駅になった島
最後の問いを贈ろう。イベントの儀礼化はこの島に何をもたらそうとしたのか?自治体の助けを借りず、手作りで舞台をきりもりした有能なスタッフはもちろんだが、共謀的観客としての私たちも、イベントが儀礼に変わるシステムに加担していた。村落祭祀(し)になぞらえれば、私たちは同じコミュニティーのメンバーという役どころを演じていたのである。島の一部を借りているお礼にと、島の人々はイベントに無料で招待されていたが、この互酬関係が800人近い一般の観客と島の人々と等格に結び付けており、みんなが同じ資格で儀礼に参加していた。出演者とスタッフを交えての舞台後のミーティングおよび交流はそれを補完するもので、車座になって三線の音が流れる様子はまさにモーアシビの世界であった。ある意味でこの交流会は、本番を超えてイベントの個性を獲得していた。これによって、行為にまつわる、する/される、ホスト/ゲストの関係のいっさいが中和され、共存性と一体感が確立されていた。
 そう考えるなら、イベントは儀礼を創造していただけではなく、一時的、あるいは幻想的だったとはいえ、コミュニティーの創出をも意図していたことになる。創造されたコミュニティー・ノーベル賞作家のガルシア=マルケスが生まれ故郷をモデルにして架空の町マコンドを創(つく)り出したように、近藤らも久高島の日常性から逸脱することによって、自らの演技のための舞台設定を整えたのだ。
 それはまた、失われつつある久高島の集団的記憶を呼びさまそうとする試みだった。例え当事者がそれを意識しなかったとしても、久高島の祖先が、そして神々がそれを願っていたに違いない。キャッチコピーにつけられた「沖縄の魂の行方」の終着は、まさしくこの島だったのだ。

            琉球新報社 提供  1996年 11月13日