父・嘉手苅林昌

嘉手苅林次

 

早いもので、オヤジが他界し、 7 年という歳月が経ちました。「時はすべてを癒す」という先人の言葉通り、この 7 年という時間が、私どもの悲しみを和らげ、半年に及ぶ辛い闘病生活の時期の事よりも、元気だった頃のオヤジの笑い顔ばかりが今では思い出されてまいります。とりわけ思い出されるのは、無口なオヤジからは、想像もつかないようなユニークな頓知話が飛び出すことです。人の笑顔がとても好きなオヤジだったので、楽しんでもらえた時のはにかみながらの笑顔は脳裏に焼きついています。オヤジは、誰に対しても強制的な教育や、気難しさを押し付ける人ではなく、色々なジャンルの音楽や考え方を尊重しました。

私が、落胆している時や、苦境に立たされた時などには、多くを語らず、ポイントを押さえたアドバイスをしてくれる男らしいオヤジでした。そんなオヤジの背中を見て育った私は、常にオヤジを尊敬し少しでも近づけるように、追い続けてまいりました。どんなに追い続けても、どんどん湧き出てくるオヤジの技量には、頭が下がります。

親子という関係以上に、贅沢な環境にいたことを貴重な事だと、周りから騒がれることも多々ありましたが、意識することがなかった幼い頃を、とても懐かしく思い出します。又、毎日のように、ラジオから流れてくるファンの皆様からのリクエスト曲でオヤジの歌声を聴くたびに、いつまでも愛され続けているオヤジは、時を経ても偉大な存在なのだと改めて実感するとともに、ファンの皆様に感謝の気持ちで一杯です。どんな環境にいても常に、気張らず、威張らずの自然体でいるオヤジが私は、本当に好きでした。皆様もご存知の事と思いますが、昔から人一倍お酒の好きだったオヤジも今頃は、あの世で沢山の仲間と飲みながらサンシンを片手に歌い続けていることでしょう。
最後になりましたが、今後とも変わらずオヤジを愛し、歌声を聴いて頂けたら幸いに思います。ありがとうございました。

 

 

人間という生き物は奇妙だ。7/26

2005 登戸にて  近藤等則

 

人間と同じような声帯をもっているのは、地球上の生物では鳥類のみ。人間と鳥だけが歌うことが出来るのだ。

実際僕はオジイサンが飼っていたメジロの鳴き声に深く影響されて育ったような気がする。若い頃春になると、ヒバリの鳴き声と一緒にトランペットを吹いた。僕がバテても、ヒバリは高速でノンストップで唄い続ける。生命力そのものがヒバリをして唄わせている。僕も生命力そのものと直結できないものか、と思った。

嘉手苅林昌さんは生命力そのものに衝き動かされて唄いつづけた稀有なシンガーだったのではないだろうか。林昌さんは“沖縄の魂”とかに限定されるのではなく、地球の魂、宇宙の魂そのものとなって唄いたかったにちがいない。逆に言えば“沖縄の魂”は地球の、宇宙の魂そのものであるはずだ。だって沖縄の島を海を、沖縄の人達が作ったはずがない。

「コンドーさん、沖縄の米軍基地の金網の前でラッパ吹いてくれませんか」という知念兄弟のラブコールをうけ、「オレはもう“地球を吹く”状態なので、沖縄のスピリチュアルな場所でやりたいな。それに是非、林昌さんにも参加してほしいんだ」ということで、久高島liveは実現した。

あれから 9 年。再度知念兄弟の熱意でこのCDが実現した。素晴らしいことだ。
みんな人間として生きる限り、生命の唄を忘れないようにしようではないか。

 

 
 

世紀を超えたイザイホウ

中江 利忠(朝日新聞元社長)

 

「たとい世ぬ中ぬ 変わて行ちゅるとん  二人が真心や 変わて呉いるな」

 漆黒の闇の中に、ほのかなスポットで浮かび上がるオトーの顔と三弦、その爪弾きと時に和し、時に反発しながら、ほとばしり出る七色の声。積み重ねられた調べが、虚空に呼び込む一陣の風。沖縄本島南部、知念半島の東5キロにある神の島「久高」の、夜のひととき。1996年10月12日、「沖縄の魂の行方」と銘打った近藤等則ミュージック・キャンプの一場面である。

 「 Blow the Earth 」(地球を吹く)というコンセプトのもと、イスラエルの砂漠やアンデスの山頂などでエレクトリック・トランペットを吹き、自然と人間の共生を訴えていた近藤さんは、日本でのパフォーマンスの場を琉球開闢の聖地、久高島に見出した。そして、ここでの共演者に琉球民謡の泰斗、嘉手苅林昌さんをはじめ、「おもろ」の安仁屋真昭さん、「つらね」の比嘉いずみさんらを選んだものである。

 近藤さんの林昌さんとの触れ合いは、京大時代、友人から譲り受けた一本のカセットテープから始まっている。そのテープには、林昌さんが30代前半に琉球民謡を吹き込んだ貴重な声が記録されていた。4半世紀にわたる宿題を仕上げる形で、ご両人の魂の交歓が久高の空に響き渡った。近藤さんがシンセサイザーでアレンジしてトランペットに重ねたフレーズが、琉球独特の5音階のメロディーで奏でられる林昌さんの三線と歌に相和し、久高島の共振のバイブレーションが絶妙に展開されて、ミュージック・キャンプは大成功だった。

 冒頭に挙げた「白雲節」の終章は、「唐ぬ世から 大和ぬ世 大和ぬ世から アメリカ世」(林昌さん作詞の「時代の流れ」)へと変わろうとも、沖縄の魂は綿々と引き継がれてゆくことを歌い上げてもいる。久高島で12年に一度、午の年の旧暦11月に満月の夜から3日3晩行われる巫女洗礼の祭イザイホウは、1990年以降途絶えているが、このミュージック・キャンプの貴重な記録は、世紀を超えた新たな「イザイホウ」にもなった。

 

 
 

ミュージック・キャンプの事

久高島ミュージック・キャンプ
プロデューサー 知念初雄

 

久高島ミュージック・キャンプはボランティアによって実施された。久高島青年会、アルテプラン、近藤ファンが中心になった。世界の聖地を音楽巡礼する近藤等則氏にとって、 25 年来憧れの嘉手苅林昌さんと神の島の巡り合わせは、夢のステージだった。

 一週間前に現場に入った氏は島の西方、海側の、赤瓦の屋根にブルーシートを被せた風呂のない空家を受け入れてくれた。小さな荷物を解いて直ぐに、対岸の斎場御嶽に向かってトランペットを吹き始めた。準備に追われたある夕暮れ、石垣の門をくぐり呼びかけた。応答が無いので裏へ廻ってみると、石垣の側の薄明かりで、小さいコンクリートの三和土に全裸でしゃがみ、突き出た水道管から水を浴びて頭から尻まで泡だらけの近藤氏が居た。

私は息を呑み、これがあの、 '92 年、首相官邸でブッシュ大統領を迎えた晩餐会での、国歌演奏を断った男かと思った。そこにはジャズメンの真実があった。

 当日、林昌さんは予定よりも早く、島に見えた。小降りになった雨の中を傘を抱え急いで迎えに出た。林昌さんは明らかに位相の違う存在だった。風の様にひょうひょうとして、そして屹立している。民宿へ案内し一休みして、青年会の案内で七嶽御廻ーいをさせて頂いた。光栄な事だった。林昌さんはごく自然に先頭を歩き、共演者、スタッフをリードし、そして全く自然に手を合わせていた。深い信仰が見て取れた。美しい老翁というのに私は初めて出合った。透明な、何か突き抜けた印象だった。それは「詩人の魂」と言われるものであったと思う。忘れる事は出来ない。

 星晴れの神の島で林昌さんは高揚されていた。「ここ数年久し振りにいい声が出ていた」と言う民謡関係者の証言もあった。音楽と共に生きた最晩年の、林昌さんの命の輝きだったのかも知れない。信仰と芸能。この二つが戦後の沖縄を支えたと思う。沖縄の民衆は貧困と圧政に呻吟しながら、信ずるに足る音楽とアーチストを求め、支持していた。